はじめまして、佐々木八重歯です。
澁澤龍彦や寺山修司、唐十郎といったアングラやサブカルなものが好きな青学生です。
青学生というと、「おしゃれでトレンドに敏感」「キラキラしている」「チャラい人が多い」「駅伝で有名」などの様々なイメージを持っていることだと思います。
また文学部に対しては「何を学んでいるのか」「どんな人がいるのか」と漠然とした疑問を抱いている人も多いと思います。
そこで、今回「青文日記」と称して、青学に通う文学部生が普段どんなことに興味をもって、どんなことを思っているのかざっくばらんに書いてみようと思います。
ということで、第1回は今話題の「言語化」について。
去年の12月頃、三省堂の辞書を編む人が選ぶ「今年の新語2024年」に「言語化」が選ばれた。
確かに近年、SNS上で「うまく言語化できないんだけど」「言いたいことをうまく言語化してくれてありがとう」などといった文言を目にすることが多かった気がする。
そして、本屋でも言語化の技術を伝えるノウハウ本を色々見かけるようになった。
その中で私が一番気になったのは三宅香帆氏の『「好き」を言語化する技術』という本である。
まず、私は声を大にして言いたい。
好きな理由は語るべからず!
自分の好きなものについて話すとき、私が一番困るのは「どこが好きなの?」「なんで好きなの?」と訊かれることである。
だって好きな理由を語れば語るほど別のものが好きでもいい理由になってしまうから。
例えば彼氏のどこが好きなの?と友達に訊かれて、優しいところと答えると、別の他の優しい男性でもよくなってしまう。
果たして彼の優しさは、彼を私にとって特別な者にしてくれるだろうか。
愚痴を聞いてくれるところと言っても、他にも愚痴を聞いてくれる人はいる。
他にも、『不思議の国のアリス』が好きだとして、なんでその作品が好きなのと訊かれたとする。
ストーリーが好きと答えれば、『堤中納言物語』の「虫を愛づる姫君」でも『あなたの人生の物語』でもよいのではないかとなってしまう。
(『不思議の国のアリス』も「虫を愛づる姫君」もどちらも少女期のなかに閉じこもったまま、なかなか女になれない娘の葛藤を描いている。また『不思議の国のアリス』には『あなたの人生の物語』のように時空が歪んでいる場面がある。女王が記憶力は過去と未来の2方向に働いていなければならないと言うのに対して、アリスがまだ起こらないことを思い出すことはできないと答えるシーンがそうである。)
また不条理劇の名作ともいわれるサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』が好きだとする。
話が面白いからと好きだと言えば、新感覚派として知られる横光利一の『蠅』が好きでもよくなってしまう。
就活でも似た状況がある。
志望理由を述べた際に、それって他の会社でもよくないですかとなってしまう。
だから、ヴィトゲンシュタインが言うように語り得ぬものについては沈黙せねばならない。
好きな理由を述べてはならない。
好きな理由を訊かれたら沈黙せよ。
とまぁ、それができたら理想的なんですけどね。
でも、どうしても語らないといけない場面はある。
上記のように志望動機を訊かれたときや、まだあまり親しくない人との会話をつなげたいときなど。
そんなときはどうすればいいか。
そうなったらもう自分の好きな対象のもつ唯一性について言及するしかないですよね。
例えば冒頭で述べたように私は澁澤龍彦が大好きである。
では、その理由は何か。
彼の古今東西の様々な知識に基づく豊富な引用や密度の濃い文体、退廃芸術などの当時異端とされていたものにスポットライトを当てた好事家精神に惚れたからだ。また、50年代頃には若きモダニストな翻訳家がラディカルなシュルレアリストに変貌し、60年代には自立した幻想世界を出発させ、70年代には60年代の反省からユートピアや幻想、デカダンスを表だっては扱わなくなったと自称するように常に変化し続ける作家であり、読んでいて飽きないことも理由のひとつである。
この様に澁澤龍彦のオリジナリティを具体的に書くと、この文から想像される人物は澁澤龍彦しかおらず、他の人が挙げられない。
逆に言うと、好きになる対象には唯一性が備わってないといけないのかな。
こんなことを、タイトルを見て思った。
さて、ここからは実際に読んでみて思ったことを書いてみようと思う。
まず「好き」を言語化する理由について。
この本の中では「好き」を言語化する理由のひとつに、「好き」という感情は時間が経つと揺らぐものであり、言語化することでそのときの「好き」という感情を保存するためということが挙げられている。
この箇所を読んで、私は寺山修司や谷川俊太郎が頭をよぎった。
彼らがよく問題にしていた「ことばが先なのか、それとも感情が先」なのかということが気になったからだ。
思いが言葉を引き寄せるのか、言葉が思いを引き寄せるのか。
例えば一冊の本を読み終わったとして、私は読み終わって「面白かった」と言語化して初めて面白かった気がする。
だって読むことに集中しているときに私の中に「面白い」などということばが入る余地がないから。
だから読書感想文を書くときには、感情を捏造しているような気がしていた。
また寺山修司の映画「田園に死す」のセリフ「書くと書いた分だけ失うことになる。書くつもりで対象化した途端に自分の風景もみんな厚化粧した見世物になってしまうんだなぁ」も頭に浮かんだ。
「好き」を言語化した瞬間、それは純粋な「好き」ではなく虚飾された偽物の「好き」になってしまうのではないか。
そんな疑問が浮かんだ。
次に自分の感想を書く前に他人の感想を見るなということについて。
この本の中で「自分の言葉」で語るのが大切で、他人の感想が感染するのを防ぐために感想を述べる前にSNSなどで他人の感想を見るなと述べられている。
私はこの部分にとても共感した。
他人の言葉でばかり語っていると、自分の言葉で語れなくなる。
だけど寺山修司が『ポケットに名言を』の中で「他人の言葉ばかり扱っていると、自分でものを言いたいという衝動が、抑えきれなくなる。」と述べているように自分の言葉で書きたい気持ちはある。
この書けないもどかしさ。この書けないもどかしさや自身の言葉の乏しさ、拙さに直面し、自分の言葉を自分の手で紡げるようになりたいと思い、こうして文章を書かせてもらっている。
このもどかしさを解消する役に立ちそうな技術や工夫がこの本には書いてある。
ぜひ、わたしと似た悩みを抱えている人は一読してみてはいかがでしょう。
さて、今回はここら辺で終わりにしたいと思います。それではまた次回お会いしましょう。